自室にて
昼、12日の新聞を読んでいたら、兄がドスドスと殺人的な足音を立ててやって来、「店を手伝え。皿洗いをしろ。今すぐ。さっさとしろ」と言う。顔が鬼みたいだった。いや、鬼以上の、ダースベイダー的な何かだった。有無を言わせない命令口調に腹が立ったので、「はいはい」と生返事をして、新聞に目を落としていたら、突然兄は新聞を奪い取り、投げ捨てた。「お前みたいなやつに選挙なんか関係ねえんだよ」と兄は言い、「だからさっさと今すぐ店を手伝いに来い!」と、犬を叱るような口調で怒鳴った。僕は恐ろしくなって、震えた声で「はいはい」と言った。
でも僕は仕事の手伝いはしなかった。なぜなら、気持ちが不愉快になっちゃったからだ。梨華ちゃんが、美貴ちゃんに対してそうなったように。あんな態度で手伝えと頼まれて、いったいどこの誰がこころよく承知するというんだ?
トイレにて
僕はとりあえずトイレに隠れた。新聞を読みながら小便をした。だけど新聞の内容は頭の中をするすると通り抜けていった。しばらくすると、またあの足音が聞こえてきた。やっぱりまた来た。それは死の予感に満ちた足音だった。僕は死ぬのかもしれない。兄は家の中を歩き回って僕を探している。そしてトイレのドアが破壊的な音を立てた。2度、3度、ボーリングの玉を全力で投げつけるような音がした。「お前なめてんじゃねえぞ」的な罵声を浴びせられた。「さっさと来い! 殺すぞ!」と兄は言った。叫んだ。いや、殺すぞ、とは言ってなかった。捏造した。でも僕はそこに殺意のようなものを感じた。ちんちんは小便を出し切って縮んでいたんだけど、兄のまるで奴隷に対するかのような暴力的な言葉によって、よりいっそう縮んだ。僕のペニスは完全に皮をかむった。それはまるで好き嫌いの激しい小学生の弁当箱に残されたミニソーセージみたいに見えた。どうでもいいけど、村上春樹ってこういう強引でややこしい例えをよくするよね。でも嫌いじゃない。だから今、真似をした。兄は、あきらめて店に戻って行った。
ベランダにて
僕はトイレを出て、ベランダに行き、洗濯物を干し始めた。洗濯物を干すのが、僕の仕事の一つなのだ。兄がまたやってきたら、洗濯物を干すのに忙しいと言って追い返すつもりだった。そうして、やっぱり兄はまた来た。競歩選手顔負けの早歩きで来た。バットで頭蓋骨を叩くような恐ろしい足音がした。その音はベランダまで聞こえてきた。ガンガンガンガン。兄はキレていた。兄の堪忍袋の緒はとても綺麗な切断面を見せていた。僕は洗濯物を干すのを中止し、きれいだな、と思ってその切断面に見とれていると、兄は「お前いい加減にしろや」と、関東人なのに関西弁で怒鳴り、僕の腹部に膝蹴りをいれてきた。僕は突然の暴力に驚いた。洗濯物がどうのなんて、言える余裕はなかった。続いて今度はボディーブローが炸裂した。顔はまずいと思ったのだろうか。それとも最低限の配慮だろうか。ボディーを狙うのが、兄なりの愛情表現なのだろうか。僕はベランダの端まで追い詰められ、落ちそうになった。兄は僕に対して説教を始めた。
要約すると、「お前のニート的な生活が気に食わない。グダグダしやがって。お前は甘いんだよ。甘えてんだよ。逃げてんだ。色んな事から。今のお前は救いようの無い最低のダメ人間だ。働け。さもないと殴る」ということだった。正直、一理あると思った。というか、兄が全面的に正しいように思われた。だから反論できなかった。というか僕は泣きそうだった。恥ずかしながら25にもなって半泣きだった。この年になって暴力に怯えることがあるとは思わなかった。暴力に訴える人間には、まさかもう出会わないだろうと思っていたんだ。しかしこんな身近にいた。灯台下暗しだった。
兄の言ってることは大方正しかったけれど、暴力に屈するのはとてもじゃないけど納得がいかなかった。だから僕は兄がまた店に戻った後も、命令を無視して洗濯物を干し続けた。干し終わって、また新聞を読んだ。内容は、やはり殆ど頭を素通りしていった。自公が3分の2議席を占めたということだけはわかった。
店内にて
その後、店が昼休みに入ると、兄に呼び出された。しんとした店の中で、僕は延々と説教された。まさに小一時間だった。僕には悪いことをしたという意識がなかったし、聞く耳なんて持てなかった。ときたま冗談を言って、なんとか場をなごませようと思った。
「お前親が死んだらどうするつもりだ? どうやって生活するんだ?」
「そしたらまあ、保険金がおりるし、遺産も相続できるし、それで生活するよ、のびのびとね」
「はあ? お前なめてんのか?」
「おいおい、冗談ですよ。冗談。本気でそんなこと思ってるわけない。わかるでしょ?」
「お前なあ、冗談を言っていいときと悪いときがあるだろう。今は冗談を言うべきじゃない状況だろうが」
「冗談を言うべきじゃないときに言う冗談が一番面白いんだよ」
「お前の冗談は全然面白くないんだよ」
「これは失礼。次は面白い冗談を言うよ」
「だから、こんなときに冗談を口にするなって言ってんだろうが!」
兄はいつもは不真面目なのに、人を叱るときだけは真面目だ。とんでもないやつだ。
それでも僕はめげずに、くだらない冗談を繰り返し言った。兄がついに笑ったのは、この冗談だった。
「お前みたいなやつは、小心者だから、エレベーターに乗ったときでさえ人の目が怖くてビクビク震えているんだろう」
「まあ、そうだね。よくご存知で」
「お前のことなんか全部お見通しなんだよ」
「でも、震えてしまうのは、僕がとても繊細な神経の持ち主だからだよ」
「ぷ。笑わせんなよお前。繊細とか。いいように言ってんじゃねえよ」
やった。笑ってくれた。ツッコミまでもを引き出せた。でもこんなしょうもない冗談で笑うとはまさか思わなかった。なんて低レベルなんだ。
まあそんなわけで、冗談のおかげで、最終的にはなごやかな雰囲気になった。僕はにっこり笑って兄と別れた。問題は、何一つ解決してはいないんだけれど。兄は、店を手伝わなければ、僕のことを殴ると言う主張を曲げなかった。
はっきり言ってうんざりだ。こんな家うんざりだ。なんで日々暴力に怯えて暮らさなければならないんだ。本当に、自殺しちゃいたいよ、梨華ちゃん。好きだよ。梨華ちゃん。大好きなんだ、梨華ちゃんのことが。僕は冗談を言うのが3度の飯と同じくらい好きなんだけど、梨華ちゃんのことは、冗談抜きで大好きだよ。だけど、今日はリカニーができなかった。ちんこが、ずっと縮こまったままなんだ。ピクリともしない。おい、僕のちんこ! どうしちゃったんだい! 元気出して! 梨華ちゃんが好きなんだろ?*1
*1:2025年11月2日、文章を読みやすく整えました。